キリシタン郡崩れ

今週の史跡チャンネルは

キリシタン郡崩れ関連史跡でした!


「郡崩れ(こおりくずれ)」とは・・・?

1657年 大村藩内の
潜伏キリシタンが
大量に発覚し、
処刑されてしまった事件のことです。


そんな大村の大事件
「郡崩れ」の史跡を
ご紹介していきます!

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大村市役所の山下さんに
お話していただきました(^^♪
もともと大村は
大村純忠の時代に
領民全員がキリスト教だった
と言われたくらい
ほとんどの人が
キリシタンでした。


しかし、江戸幕府になって
さまざまな理由から
キリスト教は禁止となりました。

大村の初代藩主、純忠の子、
大村喜前(よしあき)も
イエズス会との断交や
宣教師の追放、
領民の仏教への改宗など
全国に先駆けて行っていきました。


しかし、信仰はなかなか
変えられるものではありません(:_;)


大村のキリシタンたちは
表向きは仏教徒として
隠れてキリスト教を信仰していました。



そんな風に表向きは
穏やかに過ごしていた
大村でしたが、

郡村に住む兵作という人が知人に
「郡村に天草四郎の生まれ変わりがいる
彼は萱瀬の山奥に不思議な絵を隠し、
そこで奇妙な術を説いている」と漏らしてしまい、
その話が長崎奉行の耳に
入ってしましました・・・!!

そうして大村藩の
調査により、
603人が逮捕され、
406人が打ち首となりました・・・


この事件のことを
「郡崩れ(こおりくずれ)」といいます。


大村には
この事件に関する
史跡がたくさん残っています。

まずは
「仏の谷」

国道444号線から脇の
山の中に入ったとこにあるんですが、
ここは危ないので
見学はオススメできません((+_+))


「妻子別れの石」

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現在の西小路の墓地にあります
打ち首が決まった人が
処刑上に行く際、
家族と最期の別れを交わした場所です
石は3つありますが
これらは苔が生えないとも
言われています。

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続いて
「放虎原殉教地」

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協和町にある大きな広場に
10メートルくらいの白い、
大きな記念碑です。
ここは打ち首にされた406人のうち
131人が処刑された場所
と言われています。

表のレリーフは
全国の殉教者のため

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裏のレリーフは
郡崩れの殉教者のためです。

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4人のキリスト教徒を
天使が迎えにきてくれている絵と
なっていますね。
4人は若い男性、年配の男性、
そして小さい男の子と
その母親と思われる女性。

年齢、男女問わず
キリスト教徒は処刑されたということが
見てとれます。

そして、「獄門所跡」

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松並1丁目の公民館前に
白いマリア像があります。

ここに処刑された人々の
首を晒した場所だと言われています

この道路は旧長崎街道だったので
多くの人々が通る場所でした
あえて晒して、
見せしめにしたのでしょうか…


最後に
「首塚」

「胴塚」です

名前の通り、
処刑された人々の首と胴を
埋めた場所と言われています。

まずは「首塚」
原口町のかとりストアの裏にあります

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そして「胴塚」は
桜馬場の竹やぶの中にあります

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この2つの場所は
約500メートル離れているのですが
これは、キリシタンは
首を切っても
妖術でつながり
復活するという迷信から
離れて埋めたと言われています。


郡崩れとは
直接の関係はないのですが、
キリシタン関連であれば

「今富キリシタン墓碑」

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「田下キリシタン墓碑」

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も必見です。

どちらもキリシタンということを
隠し、表向きは
仏教徒のお墓として建てられています。
しかし・・・

今富は墓碑の
上によーく見ると
十字架が…

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田下はちょっとわかりにくいのですが
お墓を倒して埋めています。
(キリスト教は墓碑を寝かせますよね?)

そして、カモフラージュとして
仏教式の墓碑を立てています

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しかも、当時はこの墓石は
地面に埋めてたらしいです。

長年の雨などにより
発見された貴重なものです。


このように
たくさんの史跡が残っている
「郡崩れ」ですが
ひとつひとつの場所に
いろんなお話しや
思いが詰まっているのでしょうね…

史跡巡りをされる方は
ぜひ、背景を学んで
巡ることをオススメします!!

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いつになくブログが
しんみりしてしまった
イケちゃんでした〜(^v^)
2013年01月30日 15:41 カテゴリ:大村の史跡チャンネル
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